舞鶴市立青葉中学校

                                                                                                                                          
(道徳資料「命よ輝け」抜粋)                                                                                       

           
 第3代校長 富田 清     昭和24年度卒業写真より 1列目中央は富田校長先生       当時の体育祭の様子より

    
 校歌ができた経過は、昭和22年4月1日に学制改革が行われ、6・3制が施行され新制中学が誕生しました。当地域においては、与保呂小学校と倉梯小学校を校区とする森中学校が設立されることになり、校舎は森寮を当てることにして当時の東舞鶴高等女学校の一部を借りて開校することになりました。


 日本中が混乱と貧しさの中で新制中学校を始めたのですから、当時の森中学校の子ども達は大変かわいそうでいたいたしい状況でした。府立学校に間借りの同居生活、入学式は体育館がなかったので青空の下で行い、備品は何一つなく、入学はしたものの、教室の机、椅子さえない状態で、はじめは1つの教室に70人ほど入れ、床に腰をおろして先生の話を聞くだけの授業が始まりました。その後、旧海軍の長椅子を払い下げてもらえることになり、みんなで取りに行き、やっとの事で長椅子を机代わりにして床に正座して授業を受けました。・・・・グラウンドはといえば田んぼに土をかぶせただけのもので、田んぼのような黒粘土質でおまけに背丈ほどの草が生い茂り、草抜きを毎日のようにしていました。しかし、いくらきれいにしても、夏休み後には、また背丈ほどの草を見て気が抜ける思いだったそうです。先生も生徒も保護者も、すべての願いは「1日も早く自分たちの校舎を持ちたい」と言うことでした。


 当時の青葉中学校長であった富田 清校長先生は、日本中が、虚脱と混迷の中にあった時代でしたが、生徒の姿を見ていると、「このままではいけない」、「もっとはつらつとした若さが欲しい」、「たくましさが欲しい」、こんな思いで生徒を元気づけようとして書いたのが、現在の校歌につながる「森中学校前進の歌」だそうです。


 昭和24年に京都府下全体で中・高等学校の統廃合が行われ、本校は校区を、与保呂、倉梯、三笠小学校区として青葉中学校が誕生しました。校舎は東舞鶴高等女学校の校舎を青葉中学校の専用校舎とすることになり、校舎問題は一気に解決しました。


 富田校長先生は「青葉中学校創立30周年記念誌」の中で、
 「『輝け青葉』の歌は、森中学校前進の歌」の思いを是非継ぐものと考えました。・・・(略)・・・ 歌詞の内容は、「弁当忘れても、傘忘れるな」と言われている舞鶴の地方だけに、たくさんの太陽の光がどれほど'嬉しいことか、私には、常に太陽にあこがれ、光を求めよう、光に向かって進もうとの願いがあります。また、伝統に美しさは残したい。学校の東側に流れる「与保呂川」は、そんなに大きな川ではありませんが、川に沿って上流に登ると、とても清らかで美しい川の流れになっています。この美しさは、是非残したいとの思いを歌詞に込めました。


 人は、何かの理想や夢が無くては味気ない人生になります。若い命が理想を追い求める姿は美しい、この理想と精一杯頑張ろうとするひたむきな姿は美しい、この理想と精一杯頑張ろうとするひたむきな姿、その実現の可能性を信じる心、このようにしてこそ生命は輝くのだ。歌詞には、このようなたくさんの思いを込めました」と書いています。

            
          昔の青葉中学校の校舎と正門より                正門のアーチの校章は、今も玄関に展示しています。

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